ウィズコロナ 人と人、会って話してこそ  ~七夕に願いを込めて~

コロナ自粛でずっと閉鎖されていた子育てひろばが、7月から再開されました。
市のガイドラインに沿って、予約制で5組ずつ、90分ごとに総入れ替えで、スタッフは消毒作業に追われますが、それでも久しぶりに「会える!」ことをうれしく思います。

壁面装飾の係も、おもちゃの係も、絵本の係も、閉鎖期間中この日のために準備してきました。
七夕飾りには、お願い事の短冊が揺れています。

待ちに待って来所されたお母さんと話し始めると、この間の出来事のあれこれとともに「どこへも行けず、だれにも会えない」なかで感じていたいろんな思いが止めどなくあふれ出しました。

「ああ、やつぱり会って話すと、全然違いますね。聞いてもらうとホッとします。話さないと、自分の中でぐるぐる回ってしまって・・・」

電話とメールでの相談や「オンラインひろば」など、閉所中もできることを模索しながらやってはいたのですが、やはり現実に「会って、話す」のとは全然違うと、私も実感しました。

ですから、幼い子どもたちにソーシャルディスタンスや、会話を控えるようなかかわり方はしたくない。「してはいけない」とさえ、思います。

批判されるかもしれないけれど、感染予防と子どもの心の健康や健全な発達を天秤にかけ、ほどよいバランスをとっていく勇気を、私たちは持たなければいけないのではないかと思うのです。

豪雨災害が予想され避難すべき状況でも、感染を恐れて非難をためらう人が多いという報道に対して、コメントを求められた専門家が、「とにかく災害から身を守ってください。それが優先です。もし感染しても、その時は私たち医師が治療しますから」と応えていたのが印象的でした(うる覚えなので、正確な表現ではありませんが)。

どんなにがんばっても「完璧な予防」はできません。
絶対にかからないように、あれもこれもと予防策に追われて疲れ、親子や夫婦間でぎくしゃくしたり、スキンシップや豊かなコミュニケーション、仲間との交流の機会が失われたりすることが最善なのか、

予防策は大きなストレスなくできる範囲でよしとして、「かかったらかかったで、仕方ない」と割り切る選択は許されないのか・・・

いくら言われても、思わずおしゃべりしたり、群れて遊んでしまう子どもたちに「離れて、離れて!」と言う大人も、言いたい気持ちを飲み込んで「しょうがないよね」と見守る大人もいて、それは仕方ないことだけれど、後者が多いことを願わずにはいられません。

七夕様の短冊に、書いてみようかな・・・

2020.7.5

子育ての緊急事態宣言・「不安」の感染拡大と重症化を防ぐために  ~「オドシ」や「非難」のセリフを、反対方向から言い換えてみて!~

新型コロナウイルスの感染拡大予防のため緊急事態宣言が出て、もちろん皆でがんばるしかないのだけれど、ますますストレスがたまる日常が、家族間の攻撃的な行動につながらないかととても心配です。

気分転換に公園に行ったのはいいけれど、遊具で遊びたがる子に
「触っちゃダメ! そこにはバイキンがついてるよ」

ブランコから降りて、手を洗わないで走り出してしまう子に
「何べん言ったら分かるの!手を洗わなきゃダメ! 病気がうつって死んでも知らないよ」

思わずそんなセリフが、口をついて出てしまうことがあるかもしれません。
つい攻撃的な言い方をしてしまうのは、「自分がすごく不安だから」ですよね。

自分の不安を、子どもに感染させているかもしれないって気づいたら、反対方向から言い換える練習をしてみてください。

「しっかり手を洗ったら、もし見えないバイキンがついていたとしても安心だね」

自分が子どもだったら、そんな言葉のほうが受け入れやすい感じがしませんか?

「戸外遊びは、してもいい」と言われても、「感染が心配で子どもを叱ることが多く疲れるから、出かけないことにしている」という方もいらっしゃるかもしれません。

ずっと閉じこもっているとイライラがたまって、家に居てもささいなことで怒ってしまうことが増え、穏やかに接することができない自分を責めてますますイライラ… そんな悪循環にハマって、夫にも当たってしまったり

自分イジメをしていると、「私をこんなに苦しめる相手(イライラする原因をつくる子どもや夫)」に怒りがわいて攻撃的になってしまうのは、とてもよくある自然なことです。生き物の生理的な反応として身を守る態勢をとるため、交感神経優位になりますから。

そんなときは、ひとつ深呼吸をして、鏡の前に座ってみましょう。
そこには、毎日時々刻々、神経をすり減らしてがんばっているあなたがいます。

鏡の中の自分に、カウンセラーになったつもりで受容・共感・ねぎらいの言葉をかけてください。

「いろんなことが心配で、あれもこれもと一生懸命だからこそ、思い通りにならない相手についイライラしちゃうんだよね。大丈夫、私はあなたががんばっていること知ってるよ。完ぺきにはできないかもしれないけど、じゅうぶん努力していると思うよ。お疲れさま」

たとえばそんなふうに、「できない自分を責める言葉」を「できている自分を認める言葉」に言い換えてみたら、どんな気持ちになるでしょう・・・

自分を認めることに抵抗がある方も、いらっしゃるかもしれません。
認めようとすると、否定的な感情や強い不安がわきあがる方もいらっしゃるかもしれません。

子どものころ、周囲の大人からそうした承認のメッセージをいっぱいもらって育つことができなかった方かもしれません。
できないことを責められ、つらいことや悔しい思いをした経験がたくさんある方かもしれません。

周囲の大人が言うことを「鵜呑み」にして、「私はダメなんだ」と思うことにするクセがついている方かもしれません。子どもは、そうしないと生きていけない(大人に世話してもらえなくなったら、死んでしまう)から。

でも、この世の中に「完ぺきにできる人」は一人もいないのです。どんなにやっても「もっとできるはず」と感じるから。

今のあなたは、もう大人です。
完ぺきにはできない自分を認めても、ちゃんとご自身の力で生きていけます。

つらい環境を生き抜いてくれた子どものころの自分に、「ありがとう」と言ってみてください。
それを聞いた子どものあなたは、どんな気持ち?

聴かせてください。
あなたからのメールを、お待ちしています。

2020.4.8

体罰禁止の法制化をめぐって  ~将来他者を傷つけない子に育てるために、今するべきこと~

「おもちゃの取り合いなどで上の子が下の子を叩き、下の子が大泣き」といったきょうだい間のトラブルが絶えず、いくらダメと言っても繰り返すのでほとほと困っている。叱りすぎはよくないと分かっているけど、「ダメはダメ」と厳しく言わなければ将来事件を起こすようなことにならないか不安で、どうしても上の子を厳しく叱り続けてしまう…

私は毎週金曜日に地元の子育てひろばの中で相談を受けていますが、昨日はそんなきょうだいゲンカの対処に困っているというご相談が次々入りました。

親による体罰禁止の法制化に伴って厚生労働省から「子どもに苦痛や不快感を引き起こす行為はどんなに軽いものでも体罰」とする指針案が示されたことや、障害者施設で起きた殺傷事件の裁判の様子が毎日報道されていることもあってか、「じゃあ、どうすればいいの!?」という親御さん達の戸惑いには、毎日のことでもあり、切実なものがあると感じました。

いじめ、パワハラ、DV、虐待・・・思わず他者を傷つけてしまう攻撃的な人の心の中には、どんな感情があるのでしょうか…
きっと、怒りがたまっているのですよね。

ですから、子どもが将来攻撃的な人にならないようにしたかったら、親は子どもの中に怒りの感情がたまらないようにすればよいのです。

ケンカって「気持ちのぶつかり合い(目に見えない対立)」なので、第三者が「叩いた」「泣いた」という目に見える出来事に気を取られ、「よい・悪い」の判断をして対処しようとすると一層こじれます。

自分が大ゲンカした時のことを思い出すと分かりやすいと思いますが、いやなことをされたり言われたりして怒りの感情が湧きおこり、思わず相手を攻撃してしまった… そんなとき、第三者に怒られたり謝罪を強要されたりしたら、どう感じるでしょうか?
人に怒られて、自分の怒っている感情をなくすことができたでしょうか?

確かに相手を攻撃した行為は「悪いこと」ですが、そうしないではいられなかった気持ちを分かってもらえない悔しさがつのって、ますます怒りが増してしまうのは自然なことです。

「人には(この事例だと「弟には」、夫婦ゲンカなら「パートナーには」)優しくするべき」「そんなことで怒こるべきではない」と諭されても、心のわだかまりを頭(理屈)で納得させることはできないのです。

その場は親に逆らいきれず、その怒りの感情を心の底にねじ込んだとしても…
そんなことが何年にもわたって繰り返されれば、いずれ堪忍袋が満杯になってやぶれ、たまりにたまった怒りが噴き出すのはとても自然な成り行きです。

多くの場合そのはけ口は、怒りのもと(厳格な親など、逆らえない強者)ではなく、社会的弱者や身近な自分より弱い者に向かいます。障害者や高齢者、クラスのおとなしい子、職場の部下、収入のない妻、そしてわが子、など。

ですから、怒ってきょうだいを傷つける子に「怒ってはいけない」と言い聞かせたり、言ってもわからないから体罰や暴言でしつけたりし続けると、将来他者を傷つけてしまう人になるリスクが高くなります。

もしあなたが、自分の思うようにならない子どもに腹を立てて攻撃してしまったとしたら、強く非難され罰せられるのと、「思わずそうなってしまったんだね」とつらい気持ちに共感してもらうのと、子どもに優しくできる親に成長するにはどちらが有効だと思いますか?

人を攻撃しない子に育てたければ、思わずそうなってしまった子どもの気持ちに共感してあげることが一番大事。
ただね、そう思っていても、そうしたくても、そのほうがいいってわかっているのに「できない」って悩んでいる方がいっぱいいるのです。

できない自分を責めて、つらいから結局また子どもを攻撃してしまう悪循環…

気づいてください。
ご自身が、気持ちを分かってもらえなかった悔しさや不安、悲しみなどの感情をいっぱい心の底に押し込めているってことに。

自分を叱るのをやめて、自分に優しくできるようになればきっと変われます。
共感的に聴いてくれる人をさがして、子どもの頃のあなたの物語を話してみましょう。もちろん、このweb相談室もご利用いただけます。

体罰禁止の法制化は、子どもの気持ちを無視して力で従わせることを正当化する余地をなくし、誤ったしつけ論で傷つく親子を救う初めの一歩です。

2020.1.13

「頼る」ことと「依存する」こと  ~「えんとこ」のコラムを読んで~

7月6日の朝日新聞のコラム「折々のことば」で、映画「えんとこ」からの言葉を取り上げていました。

「君が今やりたいことを、まっすぐに人に伝えながら、できなことはみんなに手伝ってもらって、堂々と生きていきなさい」

「えんとこ」とは、「遠藤さんのいるところ・縁のあるところ」という意味。

映画は、24時間全介助を要する遠藤滋さんと、遠藤さんのもとに集る介護ボランティアの若者たちとの交流を描いたドキュメンタリーです(現在は、第2作「えんとこの歌」が上映中)。

障害を持ちながら養護学校教員をしていた遠藤さんは、その後障害が進んで「寝たきり」となり退職しますが、自室を「教室」に見立てて、介助のためにやってくる若者たちの言葉に耳を傾け、さりげなく素敵な言葉を返すのです。

遠藤さんが問いかける言葉の根っこにいつもあるのは、この「“堂々と”他人に頼って生きる」というテーマなのだと思います。

人は誰も、一人では生きていけません。
他人に頼ること、「堂々と」頼る力があることは、まさしく「生きる力」と言えるでしょう。
ですが、一歩間違えると「頼る」ことが「依存」になり、依存が高じると「する側」も「される側」もしんどくなって、様々な問題が起こってきます。

頼ることと、依存することの違いは・・・

そう、「堂々と」”がポイントなのだと思います。

できないことやダメなところがいろいろあっても、そのようである自分が好きで、そのままの自分に生きていく価値があると信じる力があれば、自分の思いを「まっすぐに」伝え、「堂々と」頼ることができます。
遠藤さんの生きざま、そのものです。

自信がなくて「まっすぐに」言えなかったり、自分の価値を卑下して、「堂々と」頼んだり断ったりできない人間関係に気づいたら、ちょっと立ち止まってみてください。
「ねばならない」や「するべき」「するしかない」といった感情に突き動かされて行動しているときも、ほどほどの範囲で対処することができなくなる(制御不能になる)恐れがあるので要注意です。
お互いに負担にならない程度のほどほどの依存(甘え?)は、人間関係の「うるおい」としてあっていいものと思いますが、自分の意志で制御できているかどうか、時々チェックする必要はありそうです。

2019.7.11

「誰も~ない」「みんな~だ」という思い込みを手放すために  ~川崎殺傷事件を考える~

初めてこの報道に触れたとき、あまりのことに言葉を失いました。
被害者のご家族、関係者の皆様の深い悲しみ、やり場のない怒りはいかばかりかと、息が詰まるような思いでいます。
どうか報道などによる二次被害が起こりませんように。

報道を見ながら多くの方が、自分の家族などがいつ被害者になるとも知れぬ恐怖や不安を感じていることと思います。
一方で、わが子が加害者になるかもしれない不安を感じている親御さんもいらっしゃるのではないでしょうか。

「無差別殺人」という、「普通」の感覚では「有り得ない」行為をしてしまう人、今後してしまうかもしれない人が、世の中には案外たくさんいるのかもしれません。

攻撃的な言動や暴力など難しい課題を抱える生徒と向き合う先生方や、ひきこもりなどの支援をしている方々も、こんな事件を起こすようなことにならないように何をするべきか、悩んでいらっしゃるかもしれません。

なぜこんな行為に走ったのか、加害者は亡くなっているので本当のところを知ることはできませんが、「無差別」ということは、怒りを向ける対象が「社会(自分以外の全員)」になっていたということでしょう。

報道されるわずかな情報からは、「普通」の大人のように生きたいのに、それができないいら立ち(自分への怒り)が感じられます。

離婚でどちらの親からも見捨てられた体験は、「どうせ俺なんか」という開き直り(底なしの自己否定)につながっていったのかもしれません。
離婚前のストレスフルな親子関係では、理不尽な叱責(八つ当たりで子どもに怒りの矛先が向く)が繰り返されることが多く、子どもは親の離婚を「自分が悪い子だったから」と思いこんで罪悪感を抱えることが少なくありません。

人として尊重され、愛されて育つことができなかった人が、愛され大切にされている子どもに嫉妬する、そんな気持ちがあったかもしれません。

自分いじめが限界に達したとき、攻撃対象が自分から他者にひっくり返るのは、心の防衛反応としてとてもよくある普通のことです。

攻撃的になりがちな人は、心に傷を抱えたつらい人なのですが、反発をかったり、厳しく責められたり、「困った子」「怖い人」などと敬遠されたりすることが多いので、一層孤独を深めることになります。

どうせ誰もわかってくれない・・・
みんな私を馬鹿にする・・・

そんな絶望の先に、「無差別」の犯罪行為(「みんな」へのゆがんだ復讐)があるような気がします。

もしあなたの身の回りに攻撃的な言動が気になる子がいたら、行為を叱るだけでなく、その行為の後ろにあるに違いない「つらい気持ち」を想像して、寄り添ってあげてほしい。

一人でも、気持ちを分かろうとしてくれる人に出会えたら、「誰も~」や「みんな~」という思い込みを手放せるから。

こんな事件が起こらない社会にするために、あなたがその一人になってほしい。
私は、その一人でありたい。

2019.5.30

 

「普通」ってなんだろう ~「他人(ひと)と違うのが普通」と語った視覚障害の青年~

NHKの「病院ラジオ」という番組で、視覚障害を持ちながら大学生になった青年の言葉が印象的でした。

大学は、自分の障害など霞んでしまうほどの「キャラが立った人」がたくさんいて、ヘンな人がいるのが「普通」の社会だったそうで、ヘンなのが普通だとしたら、「他人(ひと)と違う自分も普通なのか」と気が付いたと。

最近読んだ「どうして普通にできないの」という本(こだま ちの著 協同医書出版社)のテーマが重なりました。
~「かくれ」発達障害女子の見えない不安と孤独~  という副題の通り、周囲の人とうまく関われない違和感を抱えながら大人になった発達障害当事者の自伝です。

診断されないまま普通になることを求められ、普通にできない自分を責め、普通になろうと並々ならぬ努力をして疲れ果てたのちに、「昔一人でいたはずの、だだっ広いそれでいて一歩も動けない、色も音もない無限空間のような場所をいつの間にか出ていた」と気づくまでの物語は、「普通」にとらわれる「世間」のほうがよほどヘンであることを教えてくれます。

冒頭の視覚障害の青年は、病気の目を紫外線から保護するために、いつも帽子とサングラスを身につけなければなりませんでした。
小学生のころ、すれ違った見知らぬ子に「どうしてサングラスなんか掛けてるの?」と聞かれ、いやな気持で黙って通り過ぎたら、その子が駆け戻って自分の前に立ち、ツバを吐き掛けられたそうです。目に悪いことを分かっていながら、サングラスを掛けたくない、よく見えないのに携帯しているルーペを使いたくない、普通になりたい・・・ずっとそう思っていた。けど

人はみんな違う。違うのが普通なんだから、視覚障害者の自分は普通だったと、彼は言うのです。

発達障害にしても、左利きにしても、LGBTにしても、なににしたって「多数派と違う」ことは「普通」のことなのですよね。

2019.4.30

小柄でも、こだわりが強くても、多動で、コミュニケーションが苦手でも

イチロー選手の引退会見、すてきでしたね。

小柄でも、こだわりが強くても、多動でも、コミュニケーションが苦手でも、彼が素晴らしい人生を歩んでいることを誰も否定できないでしょう。

私は地元の子育てひろばで相談を受けていますが、お子さんが小柄だとか、こだわりが強いとか、多動とかコミュニケーションが苦手とか、そういうお話をよく伺います。つまり、そういうことが心配で、「何とかしたい(変えたい)」と思われている方が結構多いのです。

いじめや不登校を恐れたり、社会でうまくやっていけるようにと願ったり、幸せな将来を想うからこその親心なのですけれど、でも、親が「変えたい(もっと~になってほしい)」と一生懸命になると、子どもはありのままの自分を認めてもらえないので自信がなく、チャレンジを恐れ、人からどう思われるかが気になって自己表現ができないとか、そういう方向に行きがちです。

それって、イチロー選手の真逆のこと。彼が育った環境には、きっと「そのままのあなたがOK」というかかわり方をする大人がたくさんいたのでしょう。

さかなクンの親御さんが「絵が好きで、さかなが好きなんだから、それでいい」と、悠然としてた話も有名ですし、黒柳徹子さんの自伝「窓ぎわのトットちゃん」に出てくる大人たちもそんな感じ。

子どもの幸せを願うなら、親ができることはただ一つ。
ありのままのその子を認めて、自分を信じる力がある子に育てること。
そうすれば、子どもは自分の力で人生を切り開くことができる。

イチロー選手の言葉が、それを信じる力を与えてくれる気がします。

2019.3.25

「当事者」の気持ちはわからない けれど ~元被害児であったであろう虐待加害者を想う~

毎日のように続く児童虐待のニュース、そして8年目を迎える震災と原発事故を取り上げた番組…
当事者ではない私にできることは何か、私はどう生きるべきか、考える日々です。

今朝のNHKの番組「目撃!にっぽん」で、福島第一原発から30キロの土地に3年前開校したふたば未来高校演劇部の取り組みが紹介されました。

「訪問者では本当のことは分からない」と、今は南相馬市に在住する作家 柳美里さんが脚本と演出を手がけ、高校生たちと丁寧な対話を繰り返しながら「震災の記憶」を紡ぐ劇を作り上げていく過程を追う内容で、大変感慨深い番組でした。

部員の中で唯一被災していない生徒の葛藤に寄り添う柳美里さんの言葉が、強く印象に残りました。

「友達はみな、とてもつらい体験をしている。当事者ではない自分が、この劇で何かを語ってもいいのか」と問われて、「私は、あなたも当事者だと思っている。遠く離れているからこそ、誰よりも強く被災者の気持ちを分かりたいと思っているから」

私自身が、励まされる思いでした。
「その人の気持ちを分かりたい」と強く思う心… それなら、私も持っている。
その人の気持ちは、到底分からないのかもしれないけれど、「分かりたい」と思い続けること、
「分かろう」と努力し続けることなら私にもできる。

「子どもが殴られれば、自分は殴られずに済むと思った」という母親の言葉は、私には、見ているしかなかった自分を責める悲痛な叫びに聞こえました。
激しい暴行が止まらなかった父親は、もちろん許されるものではありません。
それでも、「彼もきっとやられていたのだろう。彼もまた、誰にも助けてもらえなかったのだろう」と思わないではいられません。

被害児を加害者にしないために、「分かろうとする人」がたくさんいる社会を目指して、私は、私ができることをする。それがすべて。

2019.3.10

心愛さん、ごめんなさい

あなたのSOSを、ちゃんと受け止め、救出につなぐことができなかった大人のひとりとして、心からお詫びします。

なんの落ち度もないあなたの命が、こんなに寒い夜に冷水をかけられ、理不尽な暴言を浴びせられながら消えていかなければならなかった現実に、どうしようもない悲しみが襲ってきます。

あなたが苦しんでいることを、たくさんの大人が知っていたのに。

私があなたのお家の近くに住んでいて、あなたの叫び声を聞くことができたら
私があなたの学校の先生の話を聴ける友達だったら
私があなたのお母さんとお話しできたら

あなたや、あなたを直接救うことができたかもしれない大人たちと、まったく接点がない私に、できることは何でしょうか?

あなたの役には立てなかったけれど、私がこれから接することができる誰かを、一生懸命サポートすると約束します。

あなたのように苦しんでいるほかの誰かが、ちゃんと助けてくれる大人と出会えるように、一生懸命話を聴いて行動を起こせる人がいっぱいいる社会にするために、私は私のできることをします。
どうぞ、見ていてください。

心愛さんが通っていた学校や、市役所、市の教育委員会などに、抗議や苦情の電話・メールが殺到しているという報道を見て、とても残念です。

多くの方がこの出来事に強い怒りを感じ、関係者を糾弾しないではいられなかった、その気持ちは理解できます。
それでも、怒りを投げつけるだけでは何も変わりません。

このどうしようもない現実を変えるために、怒っている人みんなが当事者意識をもって、自分ができることを探し、「何か」をしてほしい。

怒りのエネルギーを、誰かを責めるためではなく、世の中を変えるために使ってほしい。小さな小さなことでも、たくさんの人が「何か」をしたら、きっと何かが変わると信じたい。

2019.2.1

自分が知らなかった(知らないことにしていた)自分に気づき、受け入れる醍醐味

私は、歌が苦手です(でした)。

人前で歌うことは決してなかったし、お付き合いのカラオケでも、ノリノリで人の歌を称賛するのが私の役どころと決め、どうしても歌わなければならない状況になったときは「誰もがつい歌いたくなる曲」を選んで「ご一緒に!」と声をかけ、いろいろな人にマイクを向けて自分は口パクでした。

そんな私が、歌のレッスンを受けることになって半年。なんとソロで!

からだは「声」という音楽を奏でる楽器。そのメンテナンスとしての気功を中心としたボディワーク・・・
そんな言葉にひかれてワークショップに行き始めたのがきっかけでした。

そして先日、「秋のおさらい会」がありました。
同じ先生のもとで歌の練習をしている方々は、言うまでもなく私など足元にも及ばぬ素晴らしいソリスツばかり。そこに交じって、私が歌う! 人前で!!

先生は参加を勧めつつも「強制はしない」スタンスでした。
迷った末に、恐る恐る参加を決めました。
最後の練習日の帰りがけ、「風邪をひかないようにね」と言われ、「風邪ひきたい!」と思わず言っていた私・・・まさか、現実になるとは。

数日前から鼻がぐずぐずし始め、前日には咳も出てきて、当日は歌える状態ではなく・・・客席で拍手隊の一員となりました。

その帰り道、私の中に思いがけず「歌わなかったことを残念に思う気持ち」があることに気づきました。
ちょうど風邪をひいてよかったのでも、歌わないで済んでホッとしたのでもなく、ただただ残念に思いました。

「そうか、私、歌いたかったんだ」

驚きでした。
でも、なんだかうれしく、すがすがしく、ちょっとウキウキしてきました。

元々歌は好きで、だれもいない家の中ではよく歌っていました。
ただ「ヘタなので」、人がいたら決して歌わないことにしていました。
レッスンを始めて、先生がどんな言葉で認めてくれても、私は受け取ることができませんでした。
「とてもいい声」「音程はしっかりとれている、全く外れていない」「これでヘタとは言わせない」とまで言ってくださったのに。

以前ご紹介した「自分を好きになる本」(パット・パルマー 径書房)にこんな一文があります。

キライだった色を好きになってもいい。好きだったゲームがキライになったっていい。映画だって、食べ物だって、お話だって、キライだったものが好きになることもあるし、好きだったものがキライになることもある。 

キライだった自分を、大好きになってもいいよ。
いつでも考えを変えていい。
あなた自身を、変えていい。

変わりたいと思いさえすれば、人はいつからだって変われる。素敵ですね。

2018.10.29