「文字」で伝えるということ

2015年がスタートして1週間。
5年続いた連載の最終回の原稿を送ったり、翌日にはカウンセリングの特訓があったり・・・
文字で伝えることと、向き合って話すことについて、改めて考える機会が重なりました。

1月4日の朝日新聞に掲載された「人類の未来のために」という記事で、人類学者 川田順造氏がアフリカ各地に10年近く暮らした体験談は衝撃的でした。

はじめは文字を持つことを人類の歴史の上で一つの達成とみて、無文字社会がその達成のない段階と考えていた。でも、現実にその社会で暮らすうちにコミュニケーションが実に多様で豊かなことを知り、「文字を必要としなかった」と思いいたった、とのこと。

「農閑期の夜、熾き火を囲み、子供たちがお話を皆に聞かせる」という場面は特に印象的でした。
=昼間は大人にこき使われていた子供たちのどこから、こんな傑作な話が、いきいきとした声で出てくるのか
=文字教育で画一化されていない『アナーキーな声の輝き』
=(その声の美しさには)伝える喜びに満ちた躍動感がありました

読んでいる私の体が、その躍動感に共振して踊りました。
そういえば、5歳の孫のおしゃべりにも、そんな躍動感を感じることがあります。
「文字を覚え、文字の中に感情を閉じ込めることを覚えると、失われてしまうのかもしれない」と思うと、残念な気がします。

かつて小児科病棟のプレイルームで、ボランティアさんの「素話(すばなし)」に魅了されたことも思い出しました。
絵本の読み聞かせはよく見かけますが、素話は本を持たず、もちろん絵も人形も何も持たないで、ただ「語る」のです。
囲炉裏ばたでおばあちゃんが昔話を聞かせる、あの感じです。
幼い子どもたちも、付き添いの大人たちも、病院職員も、そのお話の世界にす~~っと引き込まれ、それはそれは心地よい時間でした。

私たちは文字という便利な伝達手段を覚えたことで、大事な能力を退化させてしまったのかもしれません。
かくいう私もコミュニケーションが大の苦手でした(今もあまり得意ではありません)。
近所にスーパーマーケットができ、一言も話さないで必要なものが買えたときの安堵感は忘れられません。
それから何十年かの時を経て、立派なオバサンになった今の私は、店員さんとそれなりに話をしながら買い物ができます。
が、それでもやはり「話す」ことにはエネルギーがいる感じがして、「書く」ことに逃げ込みたい私がいます。

IT機器に慣れた若い人たちが、「話す」より「書く」ことに流れるのは仕方のないことかもしれません。
当座は、話すより書く方がラクな感じがしますが、話すときの顔の表情や声のトーン、言葉の抑揚など多くの情報が文字からは伝わりにくいために誤解や妄想のリスクも大きく、実はかえって神経を使うようにも思います。

文字による発信は、「読み手がどのように受け取るか」を想像し、思いやりの心を持って熟慮してから送ることが最重要のマナーです。
何度でも読み直したり、書き直したりできるのが文字による発信のメリットでもあります。
このコラムもそうですが、雑誌の原稿や講座資料など、私が自分の文章を人目にさらすまでには相当回数読み直し、書き直し、しばらく放置してからもう一度読んで、直して、といった作業をします。

即時性の機能に駆り立てられて、熟慮されることなく発信されたネットやスマホの文字を読むときは、「マナー違反の情報は、まともに受け取らない(受け流していい)」という自己防衛の力をつけることが、これからの課題なのかもしれません。

2015.1.8