失敗した自分と向き合う ~枯れかけた山吹の花のつぼみを見守って~

駅に向かう途中、川沿いの遊歩道に咲く花がいつも季節を感じさせてくれます。


今は紫陽花や立ち葵がきれいですが、少し前は山吹の花がいっぱいに咲き誇っていました。
思い思いに長い枝を伸ばし、その先にまさに山吹色の花が太陽の光を浴びて輝き、それはそれは素敵な光景でした。
が・・・ ある日、その枝が電動工具で切り落とされ、「きれいな」平面に整えられてしまいました。
市が管理するその道路沿いの植物は、そんな風に奔放に枝を伸ばすことが許されないのか、と悲しくなり、廃棄される運命の花とつぼみの枝を数本持ち帰りました。

小さな花瓶にさしたのですが、あちこち向いてしまってなかなかバランスがとれません。いろいろ試し、口の細いスパイスの空きビンに入れるといい感じになりました。
花には満足したのですが、丸出しの空きビンはいただけません。
食器棚を物色して、円筒形のぐい吞みを見つけ、その中に山吹が入ったビンを入れてみると、これがすっぽりハマって、「オー、グッド!」
とてもいい気分で一日を終えました。

翌朝、一輪のつぼみが開花して、またバランスが悪くなったので枝の長さを調整したりして差し替えました・・・ つぼみを付けたひと枝がこうべをたれてぐったりしているのに気づいたのがその日の午後、夕方には葉がカピカピに干からびていました・・・
「なぜこの枝だけ?」不思議に思いながら「捨てるしかないか」と手に取ろうとして、ハッとしました。
その枝は、水が入ったビンではなく、ビンとぐい吞みの間に入っていたのです。
思わず「ごめんね!」と叫んで、「もうダメかな」と思いつつ、その枝をビンの水の中に入れ直しました。

翌日・・・ あんなに干からびていた葉に生気がもどり、つぼみを付けた茎も少し上を向いたように見えます。
「もしかしたら復活するかも」期待と不安の中で私の「見守り」が始まりました。
責められているように感じて固いつぼみを見るのがつらく、「この花は、開かないまま終わってしまうだろうか・・・私がもっと早く気づいていれば、今頃はきれいに開花していただろうに」と心が痛みました。それでも、見続けることが私のできる唯一のこと・・・

そして次の朝、つぼみが今にも咲きそうにふっくらしているのを見て、本当にうれしかった!
というより、「ホッとした」のが本音だったかもしれません。

植物の生命力を信じたい気持ちがある一方で、「きっとダメ。私のせいで」と自分を罰するようにそれを否定する気持ちが繰り返し襲ってきて、たったの三日なのに、信じて待つことの苦しさを実感した出来事でした。

これが子育てだったら・・・
もっともっと長い「信じて待つ」時間に向き合うことになるのかもしれません。
待つ(手をこまねいて、ただ見守る)ことは、本当につらく苦しい。
「つらすぎる」と感じたり、「待てない自分」の取り扱いに困ったりしたときには、その気持ちをカウンセラーに話してみるのも選択肢の一つです。

2017.6.18