ミルクをやめるのは「かわいそう」/バターロール「ひと口でも」食べさせる?~東社協保育部会研修会の質問⑤~

今回は二つのご相談から、「気持ち」について考えてみようと思います。

☆ 1歳になり、食事もしっかり摂れるようになっていますが、家ではミルクを飲んでいます。理由を聞くと、「本人がほしがるので」とのこと。やめてもらうよう、親と話し合ったのですが、「ほしがっているのに、かわいそう」と心配しています。朝食後に200ccのミルクを飲んできた日はほとんど昼食を食べないのでやめてほしいのですが、親の気持ちも分かるし、どうしていけばよいでしょう。

質問用紙には書かれていませんが、たぶん「哺乳ビンをやめられない(やめたくない)」ということなのでしょう。「哺乳ビンだと一度に200cc飲んでしまい、次の食事に影響するので保育者としては気になる」ということと解釈して、考えてみます。
幼児期以降も1日400ccくらいの牛乳は飲んだほうがよいとされているわけですから、1回100ccくらいにして次の食事が普通に食べられれば、ミルクを飲むこと自体の問題はなさそうです。歯列への影響を考えると、乳首を頻繁に吸うのは3歳以前にやめたほうがよいのですが、1歳ならまだ大丈夫でしょう。
それより、私には気になることがあります。お母さんは「ほしがっているのに、かわいそう」とおっしゃっているのですが、かわいそうなのは誰なのでしょう・・・ もちろんお母さんは「子どもがかわいそう」と思っているのですけれど、たとえば自分の中にいる幼い自分に向かって「哺乳ビンはもうないよ。おしまい」と言ってみると、思いがけない感情が湧きあがってくるかもしれません。あるいは「〇〇さんは、子どもの頃に大切なものを取り上げられて、悲しかった経験がありますか?」と尋ねてみてもよいかもしれません。それとも・・・完全母乳で育てられなかった後ろめたさやコンプレックスのようなものを引きずっている可能性もあります。
やめる条件は整っているのにやめられないのは、子どもの問題ではなくて親の気持ちが吹っ切れないからのように思えてなりません。そのあたりを片づけておかないと、これから少しずつ「がまん」を教えるしつけが難しくならないでしょうか? 「子どもがほしがるから」不要なおもちゃやお菓子を買い与えてしまうとか、「子どもが帰りたがらないから」いつまでも公園から帰れないとか、公共の場で騒いでも「子どもが傷つくから」叱れないとか・・・
自分の気持ちを率直に表現することを禁じられる環境で育った方は、自分の気持ちを子どもの気持ちにすり替えてしまうことがよくあります。子どもがかわいそうと言いながら、実は気持ちを受け取ってもらえなかった昔の自分の悲しみをケアしているわけです。保育の現場では、理由を探ったり指摘したりするようなことはしなくてよいのですが、「そんなこともある」ことは知っておくと、保育者の「どうして分かっていただけないのか」といった苛立ちが軽減して、ゆっくり関われるかもしれません。
自力では姿勢も変えられなかった新生児が、こんなに大きくなったのです。体温調節もできなかった赤ちゃんが今生きているというだけでも、親はすごく頑張ったのです。どんなにダメだったことがあったとしても、まずは十分がんばっていることを認め、ねぎらうことから始めてみてください。何ごとも「急がば回れ」です。

☆ 2歳児。野菜などの好き嫌いはないのですが、バターロールだけは「イヤ!」の一点張りで食べません。保育者は「一口でも」と言って必ず食べさせ、ひと口食べたら褒めています。一応食べますが、毎回イヤな顔です。なにかよい声かけはないでしょうか。
好き嫌いのない子なら、ロールパンにはよほどイヤな記憶がくっついているのでしょうね。お家で、からしバターが塗ってあるのを知らずに食べてびっくりしたとか、上あごに張り付いてしまって困ったとか、ひょっとしたら喉がふさがって息ができない恐怖を味わったことがあったりして・・・他にも、考えればいくらでも想像できます。理由は何でもよくて(確かめる必要もなくて)、大事なことは「何かよほどイヤなことがあるんだ」という想像力と、子どもの気持ちを大切にする「保育のプロ」としての思いやりではないでしょうか。
「子どもの最善の利益」を考えれば、ひと口のロールパンを食べることより、「ロールパンはイヤ」という気持ちが尊重される経験を積むほうが重要なことは言うまでもありません。自分の気持ちが大切に扱われる体験をたくさん積むからこそ、子どもは自分を好きになり、自分を大切にできる大人へと成長していくのです。「イヤ」という気持ちが尊重されて初めて、自分を信じる力が育ち、「イヤなことにも挑戦してみよう」という意欲が生まれます。
毎回「ひと口」食べさせて褒める保育者の気持ちを、想像してみてください。「ロールパンが食べられる」という経験を積ませることで、イヤなことを克服させてやりたいというのが、その保育者の保育理念なのかもしれません。長い目で見れば、そのほうが子どもの最善の利益につながると。では、食べさせられる子どもの気持ちは、どのようなものでしょうか。自分が子どもの立場だったら、「イヤだという気持ちを無視され、先生という権威ある者の命令に、無理やり従わされている」感じがしませんか?
そんなことが続けば、ロールパンを食べることそのものより「従わされる悔しさ」の体験のほうが重く積み重なって、自分を嫌いになってしまいそうです。そこからはぐくまれるものは、保育者の熱い思いとは裏腹の、反発や無力感、劣等感かもしれません。そして実は、そういう保育者の無意識の心の底に、「そういう体験をして悔しく悲しい思いをした幼い日の自分」がいることが少なくありません。
周囲の保育者は、「あの保育者がそのようにするのには、きっと理由があるのだ」と思って、やさしくおだやかに接してください。繰り返しますが、どんな理由があるのか詮索する必要はありません。ただ、理由があると思えばやさしくなれます。そして、たとえば「あなたの熱心な気持ちもわかるけど、あの子にはあの子の理由があるんだろうから、イヤな気持ちが薄れるまで少し待ってあげない? 誰だって、させられることは嫌いだもの。私だったら、余計イヤになっちゃいそう」などと言ってみるのはどうでしょう。
挑戦して克服する体験は、自分の気持ちの中に「食べてみようかな」という思いが芽ばえたときに、自分の意思でやってこそ子どもの財産になるのです。保育者がすることは、食べることを強制せず、食べてみたくなるまで待つことです。

(2010年8月5日)