「誰も~ない」「みんな~だ」という思い込みを手放すために  ~川崎殺傷事件を考える~

初めてこの報道に触れたとき、あまりのことに言葉を失いました。
被害者のご家族、関係者の皆様の深い悲しみ、やり場のない怒りはいかばかりかと、息が詰まるような思いでいます。
どうか報道などによる二次被害が起こりませんように。

報道を見ながら多くの方が、自分の家族などがいつ被害者になるとも知れぬ恐怖や不安を感じていることと思います。
一方で、わが子が加害者になるかもしれない不安を感じている親御さんもいらっしゃるのではないでしょうか。

「無差別殺人」という、「普通」の感覚では「有り得ない」行為をしてしまう人、今後してしまうかもしれない人が、世の中には案外たくさんいるのかもしれません。

攻撃的な言動や暴力など難しい課題を抱える生徒と向き合う先生方や、ひきこもりなどの支援をしている方々も、こんな事件を起こすようなことにならないように何をするべきか、悩んでいらっしゃるかもしれません。

なぜこんな行為に走ったのか、加害者は亡くなっているので本当のところを知ることはできませんが、「無差別」ということは、怒りを向ける対象が「社会(自分以外の全員)」になっていたということでしょう。

報道されるわずかな情報からは、「普通」の大人のように生きたいのに、それができないいら立ち(自分への怒り)が感じられます。

離婚でどちらの親からも見捨てられた体験は、「どうせ俺なんか」という開き直り(底なしの自己否定)につながっていったのかもしれません。
離婚前のストレスフルな親子関係では、理不尽な叱責(八つ当たりで子どもに怒りの矛先が向く)が繰り返されることが多く、子どもは親の離婚を「自分が悪い子だったから」と思いこんで罪悪感を抱えることが少なくありません。

人として尊重され、愛されて育つことができなかった人が、愛され大切にされている子どもに嫉妬する、そんな気持ちがあったかもしれません。

自分いじめが限界に達したとき、攻撃対象が自分から他者にひっくり返るのは、心の防衛反応としてとてもよくある普通のことです。

攻撃的になりがちな人は、心に傷を抱えたつらい人なのですが、反発をかったり、厳しく責められたり、「困った子」「怖い人」などと敬遠されたりすることが多いので、一層孤独を深めることになります。

どうせ誰もわかってくれない・・・
みんな私を馬鹿にする・・・

そんな絶望の先に、「無差別」の犯罪行為(「みんな」へのゆがんだ復讐)があるような気がします。

もしあなたの身の回りに攻撃的な言動が気になる子がいたら、行為を叱るだけでなく、その行為の後ろにあるに違いない「つらい気持ち」を想像して、寄り添ってあげてほしい。

一人でも、気持ちを分かろうとしてくれる人に出会えたら、「誰も~」や「みんな~」という思い込みを手放せるから。

こんな事件が起こらない社会にするために、あなたがその一人になってほしい。
私は、その一人でありたい。

2019.5.30

 

「普通」ってなんだろう ~「他人(ひと)と違うのが普通」と語った視覚障害の青年~

NHKの「病院ラジオ」という番組で、視覚障害を持ちながら大学生になった青年の言葉が印象的でした。

大学は、自分の障害など霞んでしまうほどの「キャラが立った人」がたくさんいて、ヘンな人がいるのが「普通」の社会だったそうで、ヘンなのが普通だとしたら、「他人(ひと)と違う自分も普通なのか」と気が付いたと。

最近読んだ「どうして普通にできないの」という本(こだま ちの著 協同医書出版社)のテーマが重なりました。
~「かくれ」発達障害女子の見えない不安と孤独~  という副題の通り、周囲の人とうまく関われない違和感を抱えながら大人になった発達障害当事者の自伝です。

診断されないまま普通になることを求められ、普通にできない自分を責め、普通になろうと並々ならぬ努力をして疲れ果てたのちに、「昔一人でいたはずの、だだっ広いそれでいて一歩も動けない、色も音もない無限空間のような場所をいつの間にか出ていた」と気づくまでの物語は、「普通」にとらわれる「世間」のほうがよほどヘンであることを教えてくれます。

冒頭の視覚障害の青年は、病気の目を紫外線から保護するために、いつも帽子とサングラスを身につけなければなりませんでした。
小学生のころ、すれ違った見知らぬ子に「どうしてサングラスなんか掛けてるの?」と聞かれ、いやな気持で黙って通り過ぎたら、その子が駆け戻って自分の前に立ち、ツバを吐き掛けられたそうです。目に悪いことを分かっていながら、サングラスを掛けたくない、よく見えないのに携帯しているルーペを使いたくない、普通になりたい・・・ずっとそう思っていた。けど

人はみんな違う。違うのが普通なんだから、視覚障害者の自分は普通だったと、彼は言うのです。

発達障害にしても、左利きにしても、LGBTにしても、なににしたって「多数派と違う」ことは「普通」のことなのですよね。

2019.4.30

小柄でも、こだわりが強くても、多動で、コミュニケーションが苦手でも

イチロー選手の引退会見、すてきでしたね。

小柄でも、こだわりが強くても、多動でも、コミュニケーションが苦手でも、彼が素晴らしい人生を歩んでいることを誰も否定できないでしょう。

私は地元の子育てひろばで相談を受けていますが、お子さんが小柄だとか、こだわりが強いとか、多動とかコミュニケーションが苦手とか、そういうお話をよく伺います。つまり、そういうことが心配で、「何とかしたい(変えたい)」と思われている方が結構多いのです。

いじめや不登校を恐れたり、社会でうまくやっていけるようにと願ったり、幸せな将来を想うからこその親心なのですけれど、でも、親が「変えたい(もっと~になってほしい)」と一生懸命になると、子どもはありのままの自分を認めてもらえないので自信がなく、チャレンジを恐れ、人からどう思われるかが気になって自己表現ができないとか、そういう方向に行きがちです。

それって、イチロー選手の真逆のこと。彼が育った環境には、きっと「そのままのあなたがOK」というかかわり方をする大人がたくさんいたのでしょう。

さかなクンの親御さんが「絵が好きで、さかなが好きなんだから、それでいい」と、悠然としてた話も有名ですし、黒柳徹子さんの自伝「窓ぎわのトットちゃん」に出てくる大人たちもそんな感じ。

子どもの幸せを願うなら、親ができることはただ一つ。
ありのままのその子を認めて、自分を信じる力がある子に育てること。
そうすれば、子どもは自分の力で人生を切り開くことができる。

イチロー選手の言葉が、それを信じる力を与えてくれる気がします。

2019.3.25

「当事者」の気持ちはわからない けれど ~元被害児であったであろう虐待加害者を想う~

毎日のように続く児童虐待のニュース、そして8年目を迎える震災と原発事故を取り上げた番組…
当事者ではない私にできることは何か、私はどう生きるべきか、考える日々です。

今朝のNHKの番組「目撃!にっぽん」で、福島第一原発から30キロの土地に3年前開校したふたば未来高校演劇部の取り組みが紹介されました。

「訪問者では本当のことは分からない」と、今は南相馬市に在住する作家 柳美里さんが脚本と演出を手がけ、高校生たちと丁寧な対話を繰り返しながら「震災の記憶」を紡ぐ劇を作り上げていく過程を追う内容で、大変感慨深い番組でした。

部員の中で唯一被災していない生徒の葛藤に寄り添う柳美里さんの言葉が、強く印象に残りました。

「友達はみな、とてもつらい体験をしている。当事者ではない自分が、この劇で何かを語ってもいいのか」と問われて、「私は、あなたも当事者だと思っている。遠く離れているからこそ、誰よりも強く被災者の気持ちを分かりたいと思っているから」

私自身が、励まされる思いでした。
「その人の気持ちを分かりたい」と強く思う心… それなら、私も持っている。
その人の気持ちは、到底分からないのかもしれないけれど、「分かりたい」と思い続けること、
「分かろう」と努力し続けることなら私にもできる。

「子どもが殴られれば、自分は殴られずに済むと思った」という母親の言葉は、私には、見ているしかなかった自分を責める悲痛な叫びに聞こえました。
激しい暴行が止まらなかった父親は、もちろん許されるものではありません。
それでも、「彼もきっとやられていたのだろう。彼もまた、誰にも助けてもらえなかったのだろう」と思わないではいられません。

被害児を加害者にしないために、「分かろうとする人」がたくさんいる社会を目指して、私は、私ができることをする。それがすべて。

2019.3.10

心愛さん、ごめんなさい

あなたのSOSを、ちゃんと受け止め、救出につなぐことができなかった大人のひとりとして、心からお詫びします。

なんの落ち度もないあなたの命が、こんなに寒い夜に冷水をかけられ、理不尽な暴言を浴びせられながら消えていかなければならなかった現実に、どうしようもない悲しみが襲ってきます。

あなたが苦しんでいることを、たくさんの大人が知っていたのに。

私があなたのお家の近くに住んでいて、あなたの叫び声を聞くことができたら
私があなたの学校の先生の話を聴ける友達だったら
私があなたのお母さんとお話しできたら

あなたや、あなたを直接救うことができたかもしれない大人たちと、まったく接点がない私に、できることは何でしょうか?

あなたの役には立てなかったけれど、私がこれから接することができる誰かを、一生懸命サポートすると約束します。

あなたのように苦しんでいるほかの誰かが、ちゃんと助けてくれる大人と出会えるように、一生懸命話を聴いて行動を起こせる人がいっぱいいる社会にするために、私は私のできることをします。
どうぞ、見ていてください。

心愛さんが通っていた学校や、市役所、市の教育委員会などに、抗議や苦情の電話・メールが殺到しているという報道を見て、とても残念です。

多くの方がこの出来事に強い怒りを感じ、関係者を糾弾しないではいられなかった、その気持ちは理解できます。
それでも、怒りを投げつけるだけでは何も変わりません。

このどうしようもない現実を変えるために、怒っている人みんなが当事者意識をもって、自分ができることを探し、「何か」をしてほしい。

怒りのエネルギーを、誰かを責めるためではなく、世の中を変えるために使ってほしい。小さな小さなことでも、たくさんの人が「何か」をしたら、きっと何かが変わると信じたい。

2019.2.1

自分が知らなかった(知らないことにしていた)自分に気づき、受け入れる醍醐味

私は、歌が苦手です(でした)。

人前で歌うことは決してなかったし、お付き合いのカラオケでも、ノリノリで人の歌を称賛するのが私の役どころと決め、どうしても歌わなければならない状況になったときは「誰もがつい歌いたくなる曲」を選んで「ご一緒に!」と声をかけ、いろいろな人にマイクを向けて自分は口パクでした。

そんな私が、歌のレッスンを受けることになって半年。なんとソロで!

からだは「声」という音楽を奏でる楽器。そのメンテナンスとしての気功を中心としたボディワーク・・・
そんな言葉にひかれてワークショップに行き始めたのがきっかけでした。

そして先日、「秋のおさらい会」がありました。
同じ先生のもとで歌の練習をしている方々は、言うまでもなく私など足元にも及ばぬ素晴らしいソリスツばかり。そこに交じって、私が歌う! 人前で!!

先生は参加を勧めつつも「強制はしない」スタンスでした。
迷った末に、恐る恐る参加を決めました。
最後の練習日の帰りがけ、「風邪をひかないようにね」と言われ、「風邪ひきたい!」と思わず言っていた私・・・まさか、現実になるとは。

数日前から鼻がぐずぐずし始め、前日には咳も出てきて、当日は歌える状態ではなく・・・客席で拍手隊の一員となりました。

その帰り道、私の中に思いがけず「歌わなかったことを残念に思う気持ち」があることに気づきました。
ちょうど風邪をひいてよかったのでも、歌わないで済んでホッとしたのでもなく、ただただ残念に思いました。

「そうか、私、歌いたかったんだ」

驚きでした。
でも、なんだかうれしく、すがすがしく、ちょっとウキウキしてきました。

元々歌は好きで、だれもいない家の中ではよく歌っていました。
ただ「ヘタなので」、人がいたら決して歌わないことにしていました。
レッスンを始めて、先生がどんな言葉で認めてくれても、私は受け取ることができませんでした。
「とてもいい声」「音程はしっかりとれている、全く外れていない」「これでヘタとは言わせない」とまで言ってくださったのに。

以前ご紹介した「自分を好きになる本」(パット・パルマー 径書房)にこんな一文があります。

キライだった色を好きになってもいい。好きだったゲームがキライになったっていい。映画だって、食べ物だって、お話だって、キライだったものが好きになることもあるし、好きだったものがキライになることもある。 

キライだった自分を、大好きになってもいいよ。
いつでも考えを変えていい。
あなた自身を、変えていい。

変わりたいと思いさえすれば、人はいつからだって変われる。素敵ですね。

2018.10.29

ノーベル賞の本庶さんに、意欲満々の幼児の姿が重なった!

本庶さんのノーベル賞受賞、心からお祝い申し上げます。

インタビューに応える本庶さんの言葉はもちろん、その研究姿勢やお人柄を語る周囲の方々の話を読んで、ふと「末は博士か、大臣か」という言葉が頭に浮かびました。

このニュースを聞いたのは、保育園の保護者の勉強会で講師を務めた翌日のことです。
「幼児期のしつけって、どこまでどうする? ~親も子も、気持ちを大切にすることから始めよう~」
というテーマで、大人の役割は二つ。

  1. 「自由にのびのび、したいようにしてよい領域」を保証するために、「ダメなものはダメ」と許されることの境界線をしっかりと示す(いわば“牧場の柵” を作る)こと
  2. 思いついたことを試し、何回でもチャレンジしたり気が済むまで探求したりできるように、極力“広い牧場”を作ること

そんな話をしました。

止めようもない成長のエネルギー、並々ならぬ意欲や好奇心、少々怒られてもめげることなく、気が済むまでやり続ける情熱、そんな幼児の姿を「素晴らしいもの」と受け止めて、「言うことを聞かなくて困る」「どうしたら止めさせられるのか」と悩むより、「どうしたら子どもがしたいことをさせてあげられるか」を考え、ダメなことを極限まで減らす工夫をしたほうが、親も子もストレスが減ります。

そういう子どもの姿を、昔は「末は博士か、大臣か」と言って、楽しみにする余裕があったのではないでしょうか。

まさに、本庶さんです。

幼児が本庶さんみたいなのか、本庶さんが幼児みたいなのか、まあどちらにしても素敵なことですよね。

「しつけができない親」という世間の評価におびえて、ついつい牧場を狭めてしまって、親も子もイライラをため込んでいる最近の子育ては本当に辛そうです。

おおらかな「社会の目」が、将来、偉大な仕事を成し遂げる人を育てることにつながっているのかもしれません。

2018.10.6

イヤイヤ期のしつけを考える  その6  ~ときには体罰も必要?~

前のコラムで、「大人も、自分の欲求を通すために相手を叩くことがある。親も、子どもが思い通りにならないと、(思い通りにさせたい自分の欲求を通すために)わが子を叩くことがある。衝動を理性でコントロールするのは、脳機能が発達しているはずの大人でもなお、ものすごく難しい」と書きました。

この表現に、抵抗感や反発を感じた方がいらっしゃるかもしれません。

親はいつも衝動で子を叩いているわけではない。
いけないことを言葉で言い聞かせても聞かないとき、「『ダメはダメ』と毅然と叱る」ことは親の責任。
叩かれる痛みを知らない子は、人の痛みがわからないから人を叩く。

衝動的に叩くのはよくないが、子どものために、子どもが将来社会に出て困らないように、悪いことは悪いときちんとしつけるために、時には体罰も必要だ(言葉でわからないことは、体で覚えさせるしかない)

そんな風に考える人は少なくありません。

この考え方を受け入れるかどうか判断するために、検討しなければいけないことをあげてみます。
(なお、このコラムでは「叩く」という言葉に、「つねる」「蹴る」など他の体罰や「暴言(言葉による暴力)」「締め出し」「閉じ込め」などの心を痛めつける行為を含みます。)

  1. 言い聞かせても聞かないのは、言葉では「わからない」からなのか
  2. 体罰以外に「毅然と叱る」方法はないのか
  3. 叩かれる痛みを知っている人は、人を叩かないのか
  4. 人は(親は)、衝動に駆られることなく他者(子)を叩くことができるのか
  5. 子どもが将来適切な行動を選べる人になるために、体罰によるしつけは有効か

では、検討しましょう。

  1. については、このコラムで繰り返しお話ししてきました。
    子どもは、わきあがる欲求のままに即行動する脳を持って生まれてきます。
    欲求を抑える脳機能が働き始めるのが3歳過ぎ。脳機能が発達した大人でも、つい衝動買いをしたり、ついやりすぎて失敗したり、間食をやめたいのについ食べてしまったり・・・「わかっている」のに理性で欲求をおさえられないことはよくあります。
    まして幼い子どもが、親に教えられたり叱られたりして「~してはいけない」とか「~したほうがいい」とか頭でわかったとしても、何度ダメと言われても、やってみたい好奇心やできるようになりたい意欲があればやめられません。
  2. は、「自分がしゃがんで子どもに視線を合わせ、手を取って真剣に話す」といったやり方がよく言われる方法です。
    そのことは皆さんよくご存知ですが、「それでも聞かないから」「3回言ってもダメなときは」といった条件を付けて体罰を容認する方も多いと思います。1 で検討したように、真剣に叱られてもやめられないのが子どもです。本当に絶対ダメなことは、そうなる場面をなるべくつくらない対策(触れてはいけないものは見えないところに片づけるなど)をとり、それが無理なことは抱きかかえてやめさせます。
    泣いても暴れても黙って(叱ったり説得したりしないで、毅然と)抱え続ければ、やがてあきらめて力が抜けます。そのタイミングで「がまんできたね」とほめる(認める)のがコツ。

    このシリーズの その1 で書いたように、「ダメはダメ」と毅然と制限することは、本当に絶対ダメなことだけにする(できるだけ意欲を満足させてあげる工夫をして、ダメなことを最小限に減らす)ことも、成功の秘訣です。ダメなことが多いと反発が強くなりますし、ストレスから乱暴になったりするので、ますます対応が難しくなってしまいます。

  3. が大うそであることは言うまでもありません。傷害などの罪を犯した人の多くが親から暴力を受けた成育歴を持っています。スポーツ界でも、暴力的な指導を受けて選手になった人がコーチになると、同じように暴力的な指導をするケースはよくあります。
    「子どもを叩いてしまう」と悩まれて相談室にいらっしゃる方も、多くは親からの体罰経験者です。

4 について。体罰を肯定する人のお話を伺っていると、「子どもが思い通りにならないと反射的に怒りがわきあがり、叩きたくないのに叩いてしまう自分を責めている」と感じることが少なくありません。いろいろな理屈を頼りに「衝動ではない」と正当化する一方で、罪悪感や自己嫌悪にさいなまれ深く自分を傷つけ続ける・・・そんな人も多いように思います。

ご自身が子どもの頃「あなたが悪いから」「あなたのため」と言われて叩かれていた人なら、子どもらしい願いや欲求を力づくで封じられた怒りや悲しみを、無意識の底にいっぱいためているかもしれません。言うことを聞かないわが子と向き合ったとき、その感情が噴き出してしまうかもしれません。
自分を責める耐えがたい痛みを抱えている人が、「子どものため」「しつけ」という鎮痛剤を手ばなせなくなるのは、仕方のないことかもしれません。

子どもを叩いているとき実際に起こっていることは、衝動的な「八つ当たり」や「うまくできない自分への怒りの転嫁」です。

「どんな理由があっても、私は叩かれてはならなかった」「思いを否定され、とても悲しかった」と、ご自身の気持ちを認められるようになることが、暴力の連鎖を抜け出す第一歩になると思います。

5 については、2001年に生まれた子どもを追跡調査した研究結果が最近学会誌に発表されたという新聞記事をご紹介したいと思います。(2017年7月31日 日本経済新聞夕刊)

3歳半の時の体罰の有無が、5歳半になった子どもの行動に与える影響を分析したところ、体罰を受けた子は、受けなかった子に比べて「落ち着いて話を聞けない」「約束を守れない」「一つのことに集中できない」「がまんができない」「感情をうまく表せない」「集団で行動できない」などの問題行動のリスクが高かったこと、体罰が頻繁に行われるほどそのリスクが高くなることが明らかになったそうです。

調査対象になった子の親御さんは、約束を守れるように、がまんができるように、体罰をしてでもちゃんとしつけなければと必死だったはずです。
自分も子どもも傷つけながら一生懸命育ててきた、そんな努力が「逆効果」だとしたら、これほど悲しく、残念なことはありません。

どうぞ自分の心と体をいたわって、自分に優しい言葉をかけてください。

2018.9.6

 

イヤイヤ期のしつけを考える  その5  ~「ごめんなさい」は、言わせないほうがいい~

2~3歳までの子どもが複数いれば、おもちゃの取り合いは避けられません。
強引に奪い取ったり、時には相手を叩いたり押し倒したり、そんなことが絶え間なく起こります。
その時、親がしなければいけないことが二つあります。

その場の状況次第でどちらが先でも構いませんが、どちらが欠けても「しつけ」になりません。

  1. 「どうしてもそれがほしい」「ボクが使っているものを取っちゃダメ」「自分の世界を邪魔されるのは絶対にイヤ」といった気持ちはしっかりと受け止め、「ほしいのね」「取ったらダメだよね」「壊されるかと思ってびっくりしたね」などと共感を伝える。
  2. 「だからと言って、相手を叩いたり押し倒したりしてはいけない」と、人を傷つける行動だけを手を取り目を見て厳しく叱る。

ここでもう一つ、

3 相手に謝罪する が、必要だと考える方も多いと思います。

特に相手にケガをさせてしまったり、相手が自分より小さい子(弱者)で、大泣きになってしまったりしたときに、謝れる子に育てることはとても大切です。

「悪いことをしたら謝る」は、成長過程で子どもが必ず身につけなければならない社会のルールです。
教えるのは、もちろん大人の責任です。

なぜ、謝らなければいけないのでしょうか?

大人同士の争いで、謝られてもちっとも謝ってもらった気がしなくて、余計に腹が立った経験ってありませんか?

謝ることの本質は「自分の非を認めること」なので、表面的な言葉だけで「ごめん」と言われても、「本当に悪いと思っていない」「私がこんなに傷ついたことをちっとも分かっていない」と感じれば許す気にはなれません。

たとえば夫婦げんかをして、分かってもらえないいら立ちが高じて相手の大切なものを投げつけ、壊してしまったら・・・

「何すんだよ! 謝れ!!」と怒る夫に、素直に謝れるでしょうか?

確かに、相手の大事なものを壊したのは私が悪い。けど・・・私の気持ちを分かってくれないあなたも悪い(私にそうさせたのはあなた)・・・

コトの本質は、互いの「気持ち」の衝突なので、「気持ちを伝え、分かり合う作業」を伴わない「ごめんなさい」は、争いの解決に役立ちません。

これまでのコラムで繰り返し書いてきたように、子どもの脳機能は未発達で自己中心です。
自分にとって大事なものを死守するのが発達段階として自然な姿なのですから、子どもの中では「私の大事なものを取る相手が悪い」「私が欲しいものを渡さない相手が悪い」のです。

謝罪を強制すれば、子どもの心は「分かってもらえないくやしさ」でいっぱいになり、反発するばかりで「反省」や「後悔」の気持ちが起こる余地がなくなってしまいます。

大人が裁判官の立場に立って「あなたが悪い」と決め、「ごめんなさい」と言わせるのは適切ではありません。(夫婦げんかで怒っているとき、親に「あなたが悪い。謝るべき」と言われる感覚を想像してみてください。)

未熟な子どもの心の中に「悪かった」とか「しまった、しなければよかった」といった気持ちがわき起こるようにするには、どうしたらよいでしょうか?

《 相手を傷つける行為を「絶対してはいけない」と教えると同時に、そうならざるを得なかったやむにやまれぬ気持ちを認め、親が誠心誠意相手の子に謝る姿を見せる(お手本になる)こと 》

とても時間がかかります。
相手の親にどう思われるか、不安かもしれません。
それでも、これ以外の対応はないと私は思います。

大人も、自分の欲求を通すために相手を叩くことがあります。親でも、子どもが思い通りにならないと、(思い通りにさせたい自分の欲求を通すために、「しつけ」という名を借りて)わが子を叩くことがあります。

衝動を理性でコントロールするのは、脳機能が発達しているはずの大人でもなお、ものすごく難しいことなのです。

過ちを犯したとき、自分の非を認めて謝れることは本当に大事なしつけです。
だからこそ、とてもたくさんの手間と時間をかける《 覚悟 》が必要です。

昔から「急いては事を仕損じる(せいてはことをしそんじる)」と言われるように、幼児に形式的な謝罪をさせるのは、逆効果になることを忘れないようにしたいと思います。

2018.8.31

 

イヤイヤ期のしつけを考える  その4  ~おもちゃの貸し借り~

この時期の子どもの心は発達段階としてみんな自己中心なので、おもちゃの奪い合いは日常茶飯事。
これまでのコラムで繰り返し書いてきたように、わきあがる欲求をおさえる脳機能が働き始めるのが3歳過ぎです。それ以前の子の脳は欲求のままに即行動するように働くのですから、「貸して」「どうぞ」を求めるのは無茶というもの。
8か月の子に「ハイハイしてはダメ。立って歩きなさい」と言い聞かせ、「いくら言ってもできない」と悩むようなもので、親も子も傷つき、疲れ、攻撃的になりがちです。

とはいえ、日々繰り返されるこのトラブルに「親が何もしないわけにはいかない」のも現実ですね。
親がこの時期の子にしてほしいことを「言い聞かせて、させる」のは無理なので、対応策は「子どもの心に『貸してあげたい』という欲求がわきあがるようにする」しかありません。

離乳食の頃、子どもが自分の食べ物を親に食べさせようとすることがありませんでしたか?
はじめは親が子に食べさせる一方ですが、いつの間にか自分で食べようとするようになり、ある日、親が自分にしたように自分が親に食べさせてあげようとする姿が見られるようになります。

子どもの中には「大人のようにしたい」という熱くて強い欲求がありますから、親が自分にすることを自分がしたくなる(親の立場に自分を置いてみる)日がいずれ必ずやってきます。
してほしいことは、してあげればいいのです。たとえば・・・

遠くの物を取ろうとしてテーブルに上ってしまうわが子に、「これがほしいの? ハイ、どうぞ」と渡してあげたり

親が使っている鉛筆を子どもがほしがったら「今はママが使ってるんだけどな。しょうがない、貸してあげるよ。ママはあとで書く(または別ので書く)からいいよ」と言ってみたり

そんな体験をいっぱいするうちに、「してもらう」うれしさが「してあげたい」気持ちに火をつけます。
初めのうちは、どうでもいいものは貸してくれるけれど自分にとって大事なものは貸せません。
「自分だって使いたい」という葛藤に自分で折り合いをつけて「貸してあげる」ことができるまでには、とても時間がかかります。

わが子の「貸せない気持ち」を受け止めて、待ってあげてほしい。
それこそが、「相手の気持ちを考えて、やさしくする」お手本だから。

考えてみれば大人だって、大事なものは貸してあげられないことがあります。
「貸して」と言われたら、いつでも貸さなければならないわけでもありません。
きちんと“NO”が言えることは、社会生活を営む上でとても大事なスキルです。

子どものおもちゃは、大人の目にはささいなものだったり、「たくさんあるんだから、ひとつくらいいいじゃない」と思えたりするものでも、子どもにとってはものすごく大事なものなのです。ひとつでも欠けたら、自分の中の想像の世界が一気に崩壊してしまう感覚すら持っているかもしれません。

もちろん、だからと言って相手を押し倒したり、叩いたり噛んだりする行為は許されません。
「取られてイヤだったの? 今は〇〇が~を作っているんだものね」とか
「壊されるかと思って、びっくりしたね」とか、子どもの気持ちを認めて代弁したうえで、

「でも、小さい子を押さないで。転んだら痛いよ」とか
「どんなにイヤでも、叩くのは絶対ダメ!」とか、してはいけない行動だけを叱ります

落ち着いて話を聞ける状態なら、言葉で交渉する方法を知る機会にするのもよいと思います(相手の気持ちに配慮して、自分で交渉できるようになるのはまだまだ先のことですが、「予習」になります)。

「でも、△△ちゃんも使いたいんだって。ひとつ貸してあげられる?」とたずねたり,逆の立場なら

「それがとっても気になったのね。でも勝手に取ったらお兄ちゃんもイヤだよ。貸してって、お願いしてみようか」とか

どのパターンも基本は疑問形で、決めつけや命令形はNG。
親の願いと違っていても、あくまでも本人の気持ちを尊重します。

「ごめんね、今はまだ貸せないんだって。少し待ってくれる?」「ほかのでもいい?」などと、親が相手の子に伝えて、言葉で交渉する実例を見せます。

自分の気持ちを大切にしてもらう経験を積むことが、相手の気持ちを大切にできるようになるために一番重要なステップです。
相手の親の手前「そんなことは言えない」と思われるかもしれませんが、大多数の親はそうした対応を不適切とは受け止めません。

「親が自分にしてくれたように、自分も他の子にやさしくしてあげたい(大人のようにできたら、カッコいい)」「けど、今はこれが絶対必要」「絶対、邪魔されたくない」・・・

何度も何度もそんな葛藤をくりかえして、だんだん自分の気持ちを制御する力をつけ、自分の意思で貸してあげられる日がやってきます。

その時が来るまで待ってもらえたら、子どもは「してあげられる自分」への誇らしさや達成感といった「いい気分」を体験して、もっとしてあげたくなるので、自分の気持ちを大切にしつつも相手を思いやることができる優しい子に育ちます。

まだ貸せない気持ちでいっぱいの時に、親の意向に沿って貸してしまうことを繰り返せば、わかってもらえないくやしさや悲しみが積もって攻撃的になったり、いつも周囲の顔色をうかがって本当の自分の気持ちがわからなくなったりして、他者とよい関係を築くことが苦手な子になってしまうことがあります。

「人の痛みがわかる子に育てなければ」という親の願いが、裏目に出てしまっては残念です。

急がば回れ!!

2018.8.27 (別サイト「ブランシュシュ」で連載した記事を再掲しています)