今日はみどりの日。わが家の雑草問題が、すがすがしく解決した記念日です。
窓から見える桜並木も、今は若葉の緑色がとってもきれい。
でも、この時期になると雑草も勢いよく伸びて、どうしたものかと毎年悩んでいました。
以前夫の実家に行ったとき、義父が庭の「雑草」をせっせと抜いていて、その光景がずっと忘れられません。黄色い花をつけたタンポポだけ、あちこちに残っていたのです。
「タンポポは雑草じゃないのか… 抜いて捨てられた草と、選ばれて残った草。何が違うんだろう…」
いざわが家の雑草を前にして、それらを区別?差別?することがなんだか嫌で、なかなか手をつけられず、困っていました。
誇らしく咲くタンポポを抜けない気持ちはもちろん分かります。私だってそうです。
でも、形は小さいけれどタンポポと同じような黄色い花をたくさんつける草は「雑草」としてぬかれてしまう… 自分がそういう行為をすることに、どうしても抵抗があるのです。
タンポポの名前はだれでも知っています。名前を知らない小さな花を咲かせるいろんな草たち、調べればそれぞれに名前があるはずのいろんな草たちを「雑草」とひとくくりにして切り捨てる、その行為をする自分を許せない感じがわきあがってしまう…
それが、4月29日昭和の日の朝日新聞に載った投書「共感した『雑草という草はない』」を読んで、「そうか、抜かなくていいんだ!」と気づくことができ、とてもすっきりしました。
「雑草という草はない」は、植物を愛した昭和天皇のお言葉としてよく知られています。もちろん私も知っていました。
投稿された方は、以前障害児支援の施設長をしていた時、職員や保護者が「先生、雑草を取りましょう」と言ってくるのが嫌だったそう。
そして「植物はできるだけ根を残して、平等に短めの散髪がいい。命はみな同じだ。ひとつひとつの種に名前がある。健常者、障害者の言葉を取り払い、ひとりひとり、大事なのだ」と。
なんて素敵な考え方でしょう。
「雑草は伸びたら抜かなければならない」と思い込んで、全部抜くのも区別して残すのも抵抗があって、困っていた自分がバカみたい。
「根が残るとまた伸びてくるから、何度でもこの悩ましい状況が起こる」って、毎年思っていたけれど、「根を残せばみんな平等にまた伸びる、それがいいんだ!」
というわけで、今年は迷いなくハサミで「散髪」を済ませました。
ああ、気持ちいい。
2025.5.4