「誰も~ない」「みんな~だ」という思い込みを手放すために  ~川崎殺傷事件を考える~

初めてこの報道に触れたとき、あまりのことに言葉を失いました。
被害者のご家族、関係者の皆様の深い悲しみ、やり場のない怒りはいかばかりかと、息が詰まるような思いでいます。
どうか報道などによる二次被害が起こりませんように。

報道を見ながら多くの方が、自分の家族などがいつ被害者になるとも知れぬ恐怖や不安を感じていることと思います。
一方で、わが子が加害者になるかもしれない不安を感じている親御さんもいらっしゃるのではないでしょうか。

「無差別殺人」という、「普通」の感覚では「有り得ない」行為をしてしまう人、今後してしまうかもしれない人が、世の中には案外たくさんいるのかもしれません。

攻撃的な言動や暴力など難しい課題を抱える生徒と向き合う先生方や、ひきこもりなどの支援をしている方々も、こんな事件を起こすようなことにならないように何をするべきか、悩んでいらっしゃるかもしれません。

なぜこんな行為に走ったのか、加害者は亡くなっているので本当のところを知ることはできませんが、「無差別」ということは、怒りを向ける対象が「社会(自分以外の全員)」になっていたということでしょう。

報道されるわずかな情報からは、「普通」の大人のように生きたいのに、それができないいら立ち(自分への怒り)が感じられます。

離婚でどちらの親からも見捨てられた体験は、「どうせ俺なんか」という開き直り(底なしの自己否定)につながっていったのかもしれません。
離婚前のストレスフルな親子関係では、理不尽な叱責(八つ当たりで子どもに怒りの矛先が向く)が繰り返されることが多く、子どもは親の離婚を「自分が悪い子だったから」と思いこんで罪悪感を抱えることが少なくありません。

人として尊重され、愛されて育つことができなかった人が、愛され大切にされている子どもに嫉妬する、そんな気持ちがあったかもしれません。

自分いじめが限界に達したとき、攻撃対象が自分から他者にひっくり返るのは、心の防衛反応としてとてもよくある普通のことです。

攻撃的になりがちな人は、心に傷を抱えたつらい人なのですが、反発をかったり、厳しく責められたり、「困った子」「怖い人」などと敬遠されたりすることが多いので、一層孤独を深めることになります。

どうせ誰もわかってくれない・・・
みんな私を馬鹿にする・・・

そんな絶望の先に、「無差別」の犯罪行為(「みんな」へのゆがんだ復讐)があるような気がします。

もしあなたの身の回りに攻撃的な言動が気になる子がいたら、行為を叱るだけでなく、その行為の後ろにあるに違いない「つらい気持ち」を想像して、寄り添ってあげてほしい。

一人でも、気持ちを分かろうとしてくれる人に出会えたら、「誰も~」や「みんな~」という思い込みを手放せるから。

こんな事件が起こらない社会にするために、あなたがその一人になってほしい。
私は、その一人でありたい。

2019.5.30