「頼る」ことと「依存する」こと  ~「えんとこ」のコラムを読んで~

7月6日の朝日新聞のコラム「折々のことば」で、映画「えんとこ」からの言葉を取り上げていました。

「君が今やりたいことを、まっすぐに人に伝えながら、できなことはみんなに手伝ってもらって、堂々と生きていきなさい」

「えんとこ」とは、「遠藤さんのいるところ・縁のあるところ」という意味。

映画は、24時間全介助を要する遠藤滋さんと、遠藤さんのもとに集る介護ボランティアの若者たちとの交流を描いたドキュメンタリーです(現在は、第2作「えんとこの歌」が上映中)。

障害を持ちながら養護学校教員をしていた遠藤さんは、その後障害が進んで「寝たきり」となり退職しますが、自室を「教室」に見立てて、介助のためにやってくる若者たちの言葉に耳を傾け、さりげなく素敵な言葉を返すのです。

遠藤さんが問いかける言葉の根っこにいつもあるのは、この「“堂々と”他人に頼って生きる」というテーマなのだと思います。

人は誰も、一人では生きていけません。
他人に頼ること、「堂々と」頼る力があることは、まさしく「生きる力」と言えるでしょう。
ですが、一歩間違えると「頼る」ことが「依存」になり、依存が高じると「する側」も「される側」もしんどくなって、様々な問題が起こってきます。

頼ることと、依存することの違いは・・・

そう、「堂々と」”がポイントなのだと思います。

できないことやダメなところがいろいろあっても、そのようである自分が好きで、そのままの自分に生きていく価値があると信じる力があれば、自分の思いを「まっすぐに」伝え、「堂々と」頼ることができます。
遠藤さんの生きざま、そのものです。

自信がなくて「まっすぐに」言えなかったり、自分の価値を卑下して、「堂々と」頼んだり断ったりできない人間関係に気づいたら、ちょっと立ち止まってみてください。
「ねばならない」や「するべき」「するしかない」といった感情に突き動かされて行動しているときも、ほどほどの範囲で対処することができなくなる(制御不能になる)恐れがあるので要注意です。
お互いに負担にならない程度のほどほどの依存(甘え?)は、人間関係の「うるおい」としてあっていいものと思いますが、自分の意志で制御できているかどうか、時々チェックする必要はありそうです。

2019.7.11

「誰も~ない」「みんな~だ」という思い込みを手放すために  ~川崎殺傷事件を考える~

初めてこの報道に触れたとき、あまりのことに言葉を失いました。
被害者のご家族、関係者の皆様の深い悲しみ、やり場のない怒りはいかばかりかと、息が詰まるような思いでいます。
どうか報道などによる二次被害が起こりませんように。

報道を見ながら多くの方が、自分の家族などがいつ被害者になるとも知れぬ恐怖や不安を感じていることと思います。
一方で、わが子が加害者になるかもしれない不安を感じている親御さんもいらっしゃるのではないでしょうか。

「無差別殺人」という、「普通」の感覚では「有り得ない」行為をしてしまう人、今後してしまうかもしれない人が、世の中には案外たくさんいるのかもしれません。

攻撃的な言動や暴力など難しい課題を抱える生徒と向き合う先生方や、ひきこもりなどの支援をしている方々も、こんな事件を起こすようなことにならないように何をするべきか、悩んでいらっしゃるかもしれません。

なぜこんな行為に走ったのか、加害者は亡くなっているので本当のところを知ることはできませんが、「無差別」ということは、怒りを向ける対象が「社会(自分以外の全員)」になっていたということでしょう。

報道されるわずかな情報からは、「普通」の大人のように生きたいのに、それができないいら立ち(自分への怒り)が感じられます。

離婚でどちらの親からも見捨てられた体験は、「どうせ俺なんか」という開き直り(底なしの自己否定)につながっていったのかもしれません。
離婚前のストレスフルな親子関係では、理不尽な叱責(八つ当たりで子どもに怒りの矛先が向く)が繰り返されることが多く、子どもは親の離婚を「自分が悪い子だったから」と思いこんで罪悪感を抱えることが少なくありません。

人として尊重され、愛されて育つことができなかった人が、愛され大切にされている子どもに嫉妬する、そんな気持ちがあったかもしれません。

自分いじめが限界に達したとき、攻撃対象が自分から他者にひっくり返るのは、心の防衛反応としてとてもよくある普通のことです。

攻撃的になりがちな人は、心に傷を抱えたつらい人なのですが、反発をかったり、厳しく責められたり、「困った子」「怖い人」などと敬遠されたりすることが多いので、一層孤独を深めることになります。

どうせ誰もわかってくれない・・・
みんな私を馬鹿にする・・・

そんな絶望の先に、「無差別」の犯罪行為(「みんな」へのゆがんだ復讐)があるような気がします。

もしあなたの身の回りに攻撃的な言動が気になる子がいたら、行為を叱るだけでなく、その行為の後ろにあるに違いない「つらい気持ち」を想像して、寄り添ってあげてほしい。

一人でも、気持ちを分かろうとしてくれる人に出会えたら、「誰も~」や「みんな~」という思い込みを手放せるから。

こんな事件が起こらない社会にするために、あなたがその一人になってほしい。
私は、その一人でありたい。

2019.5.30

 

「普通」ってなんだろう ~「他人(ひと)と違うのが普通」と語った視覚障害の青年~

NHKの「病院ラジオ」という番組で、視覚障害を持ちながら大学生になった青年の言葉が印象的でした。

大学は、自分の障害など霞んでしまうほどの「キャラが立った人」がたくさんいて、ヘンな人がいるのが「普通」の社会だったそうで、ヘンなのが普通だとしたら、「他人(ひと)と違う自分も普通なのか」と気が付いたと。

最近読んだ「どうして普通にできないの」という本(こだま ちの著 協同医書出版社)のテーマが重なりました。
~「かくれ」発達障害女子の見えない不安と孤独~  という副題の通り、周囲の人とうまく関われない違和感を抱えながら大人になった発達障害当事者の自伝です。

診断されないまま普通になることを求められ、普通にできない自分を責め、普通になろうと並々ならぬ努力をして疲れ果てたのちに、「昔一人でいたはずの、だだっ広いそれでいて一歩も動けない、色も音もない無限空間のような場所をいつの間にか出ていた」と気づくまでの物語は、「普通」にとらわれる「世間」のほうがよほどヘンであることを教えてくれます。

冒頭の視覚障害の青年は、病気の目を紫外線から保護するために、いつも帽子とサングラスを身につけなければなりませんでした。
小学生のころ、すれ違った見知らぬ子に「どうしてサングラスなんか掛けてるの?」と聞かれ、いやな気持で黙って通り過ぎたら、その子が駆け戻って自分の前に立ち、ツバを吐き掛けられたそうです。目に悪いことを分かっていながら、サングラスを掛けたくない、よく見えないのに携帯しているルーペを使いたくない、普通になりたい・・・ずっとそう思っていた。けど

人はみんな違う。違うのが普通なんだから、視覚障害者の自分は普通だったと、彼は言うのです。

発達障害にしても、左利きにしても、LGBTにしても、なににしたって「多数派と違う」ことは「普通」のことなのですよね。

2019.4.30

小柄でも、こだわりが強くても、多動で、コミュニケーションが苦手でも

イチロー選手の引退会見、すてきでしたね。

小柄でも、こだわりが強くても、多動でも、コミュニケーションが苦手でも、彼が素晴らしい人生を歩んでいることを誰も否定できないでしょう。

私は地元の子育てひろばで相談を受けていますが、お子さんが小柄だとか、こだわりが強いとか、多動とかコミュニケーションが苦手とか、そういうお話をよく伺います。つまり、そういうことが心配で、「何とかしたい(変えたい)」と思われている方が結構多いのです。

いじめや不登校を恐れたり、社会でうまくやっていけるようにと願ったり、幸せな将来を想うからこその親心なのですけれど、でも、親が「変えたい(もっと~になってほしい)」と一生懸命になると、子どもはありのままの自分を認めてもらえないので自信がなく、チャレンジを恐れ、人からどう思われるかが気になって自己表現ができないとか、そういう方向に行きがちです。

それって、イチロー選手の真逆のこと。彼が育った環境には、きっと「そのままのあなたがOK」というかかわり方をする大人がたくさんいたのでしょう。

さかなクンの親御さんが「絵が好きで、さかなが好きなんだから、それでいい」と、悠然としてた話も有名ですし、黒柳徹子さんの自伝「窓ぎわのトットちゃん」に出てくる大人たちもそんな感じ。

子どもの幸せを願うなら、親ができることはただ一つ。
ありのままのその子を認めて、自分を信じる力がある子に育てること。
そうすれば、子どもは自分の力で人生を切り開くことができる。

イチロー選手の言葉が、それを信じる力を与えてくれる気がします。

2019.3.25

「当事者」の気持ちはわからない けれど ~元被害児であったであろう虐待加害者を想う~

毎日のように続く児童虐待のニュース、そして8年目を迎える震災と原発事故を取り上げた番組…
当事者ではない私にできることは何か、私はどう生きるべきか、考える日々です。

今朝のNHKの番組「目撃!にっぽん」で、福島第一原発から30キロの土地に3年前開校したふたば未来高校演劇部の取り組みが紹介されました。

「訪問者では本当のことは分からない」と、今は南相馬市に在住する作家 柳美里さんが脚本と演出を手がけ、高校生たちと丁寧な対話を繰り返しながら「震災の記憶」を紡ぐ劇を作り上げていく過程を追う内容で、大変感慨深い番組でした。

部員の中で唯一被災していない生徒の葛藤に寄り添う柳美里さんの言葉が、強く印象に残りました。

「友達はみな、とてもつらい体験をしている。当事者ではない自分が、この劇で何かを語ってもいいのか」と問われて、「私は、あなたも当事者だと思っている。遠く離れているからこそ、誰よりも強く被災者の気持ちを分かりたいと思っているから」

私自身が、励まされる思いでした。
「その人の気持ちを分かりたい」と強く思う心… それなら、私も持っている。
その人の気持ちは、到底分からないのかもしれないけれど、「分かりたい」と思い続けること、
「分かろう」と努力し続けることなら私にもできる。

「子どもが殴られれば、自分は殴られずに済むと思った」という母親の言葉は、私には、見ているしかなかった自分を責める悲痛な叫びに聞こえました。
激しい暴行が止まらなかった父親は、もちろん許されるものではありません。
それでも、「彼もきっとやられていたのだろう。彼もまた、誰にも助けてもらえなかったのだろう」と思わないではいられません。

被害児を加害者にしないために、「分かろうとする人」がたくさんいる社会を目指して、私は、私ができることをする。それがすべて。

2019.3.10

心愛さん、ごめんなさい

あなたのSOSを、ちゃんと受け止め、救出につなぐことができなかった大人のひとりとして、心からお詫びします。

なんの落ち度もないあなたの命が、こんなに寒い夜に冷水をかけられ、理不尽な暴言を浴びせられながら消えていかなければならなかった現実に、どうしようもない悲しみが襲ってきます。

あなたが苦しんでいることを、たくさんの大人が知っていたのに。

私があなたのお家の近くに住んでいて、あなたの叫び声を聞くことができたら
私があなたの学校の先生の話を聴ける友達だったら
私があなたのお母さんとお話しできたら

あなたや、あなたを直接救うことができたかもしれない大人たちと、まったく接点がない私に、できることは何でしょうか?

あなたの役には立てなかったけれど、私がこれから接することができる誰かを、一生懸命サポートすると約束します。

あなたのように苦しんでいるほかの誰かが、ちゃんと助けてくれる大人と出会えるように、一生懸命話を聴いて行動を起こせる人がいっぱいいる社会にするために、私は私のできることをします。
どうぞ、見ていてください。

心愛さんが通っていた学校や、市役所、市の教育委員会などに、抗議や苦情の電話・メールが殺到しているという報道を見て、とても残念です。

多くの方がこの出来事に強い怒りを感じ、関係者を糾弾しないではいられなかった、その気持ちは理解できます。
それでも、怒りを投げつけるだけでは何も変わりません。

このどうしようもない現実を変えるために、怒っている人みんなが当事者意識をもって、自分ができることを探し、「何か」をしてほしい。

怒りのエネルギーを、誰かを責めるためではなく、世の中を変えるために使ってほしい。小さな小さなことでも、たくさんの人が「何か」をしたら、きっと何かが変わると信じたい。

2019.2.1