昨年、埼玉県の三芳町からご依頼を受けて町のホームページに子育てQ&Aを書かせていただきました。
http://www.town.saitama-miyoshi.lg.jp/kosodate/shiritai/index.html
先日、これを読んだと思われる方からご意見をいただきました。概要は次のようなものです。
「地元の中学校の先生が、生徒への体罰があったとして戒告処分を受けた。この生徒は、先生に「死ね」と書いた手紙を渡すなど日頃から嫌がらせがあったようだ。こうした生徒を厳しく指導しなければ学校は荒れ、生徒は将来してよいこととわるいことの区別もできない大人になってしまうのではないか。」
「死ね」と書いた手紙を渡すなどの嫌がらせがもし事実だとすれば、それは明らかに「言葉の暴力」ですから、絶対に許されないことです。「どんな理由があったとしても(たとえば、仮にこの教諭がこの生徒に対して、人格を否定するようなきわめて不適切な言動や扱いをしており、生徒がひどく傷ついていたといった事情があったとしても)、暴力は絶対にしてはいけない」と、厳しく指導するべきです。おっしゃる通り、指導しなければ学校は荒れ、生徒は将来していいことと悪いことの区別もできない大人になってしまうと思います。
「暴力(当然言葉の暴力を含めて)は、どんな理由があっても絶対にダメ」と、厳しく指導する必要はあります。でも、だから体罰が認められるという話になると、自己矛盾にならないでしょうか?
暴力(嫌がらせの手紙や反抗的な態度)はいけないという指導を、暴力(体罰)ですることになりますし、「傷つくことをされたら、相手を殴ってもいい」というお手本になってしまいそうです。
先生は生徒に傷つくことを言われていたのだから、生徒を殴ってもいい?だってそれは、生徒の将来を思っての指導だから・・・
戒告処分の対象になった行為は、給食当番のときに白衣を着なかったこの生徒を蹴ってケガを負わせたというものです。この場面で生徒を蹴ることが、指導になるでしょうか?先生に蹴られたら、生徒は反省して他者に暴力を振るわない大人に成長できるでしょうか?
私には、暴力を受けた生徒の中には反発だけが起こり、攻撃的な気持ちがくすぶり続けて、いつか爆発するような気がしてなりません。それは、生徒に傷つけられた先生が思わず生徒を攻撃してしまったのと同じ構図に見えます。この子が心から後悔して、二度と同じことをしないようにする「厳しい指導」とは、どのような指導でしょうか?
私は、三芳町のホームページに書いたように、基本は気持ちと行動を分けることだと思っています。攻撃したくなる気持ちをとことん聴いて、「そう感じるのは自然なこと」と気持ちを受容したうえで、暴力(言葉であれ、行為であれ)という行動は「絶対ダメ」と、血相を変え、目を見て真剣に話すことで、指導は可能です。体罰より、ずっと効果的な指導です。
もちろん、その先生の気持ちは十分に理解できます。つらい気持ちを貯め込み、がまんにがまんを重ねたあげくの反撃だったのかもしれません。家族や同僚、カウンセラーなどがその気持ちに寄り添い、受容と共感を持って先生のお話を伺い、心の傷をケアすることができていたら、生徒ともう少し冷静に向き合えたのではないかと残念に思います。
同様にその生徒は、気持ち(「死ね」と言いたくなるくらいの、よほどいやなことがあったのでしょう)に寄り添い、受容と共感をもって話を聴いてくれる人に出会えたら、きっと他者を傷つけない大人に成長できると思うのです。
体罰は暴力です。暴力は人の心を傷つけるので、相手の心に攻撃的な気持ちのタネをまいてしまいます。人を攻撃しない大人になってほしいからこそ、教師は攻撃的な子を攻撃しないでほしい。優しくゆっくりていねいに関わることで、優しさのタネをまいてほしいと願っています。
「自分が悪いことをしたのだから、殴られて当然。しつけのためには体罰も必要」
もしそんなお考えの方があなたの近くにいらっしゃったら、そう思わざるを得ない体験を重ねて攻撃的な気持ちのタネを抱えているのかもしれません。
繰り返しますが、どんな理由があったとしても、この世に「殴られてよい人」は一人も存在しません。
攻撃的な行動を制止しつつ、そうならざるを得なかった人の気持ちを否定しないでとことん寄り添える支援者がたくさんいる社会を、つくって行かなければと思います。
(2013.4.9)